詩集

日曜のDown Beatのイベントで、ちょっと驚いたのは意外と詩学を知らない人が多い、ということであった。もっとも当方も若いころは名前は知っていたが、詩学を読んでいなかった。でも戦後すぐのころの詩の権威だっただろう、という話がでた。わたしが持っていったのは先日ネットで買った「詩学」の昭和二十九年のもの。みると確かに現代詩の公器という感じである。投稿用の券が雑誌に付いている。これはいい考えではないかと、二次会で話した。何編も応募したい場合は、何冊も雑誌を買う、というのは悪くない。気軽に投稿できる、という状況からは凄い詩は生まれにくいであろう。イベントの席上では、柿沼さんから、吉野弘の「I was born」は詩学の投稿詩であった、という発言があった。投稿欄がそれくらいの水準になれば、確かに公器となるであろう。
 当時権威だった詩誌といえば、もうひとつは「歴程」ではなかったろうか。戦後すぐのころの角川文庫には歴程編になる『現代詩集』という文庫本があった(これはイベントには持って行かなかったが)。同人誌が文庫本を出す、というのは今では考えられない。今回Down Beatでセレクトした現代詩が、新潮文庫になるようなものであろう。だがそんなことはSFのパラレルワールド物でなければありえない。
 イベントの後半では、小川さんが淵上毛錢のことを話した。淵上の詩は歴程編の文庫本にも収録されていたと思うが、今ではなかなか読めない。ずっと病気で寝ていた詩人である。尾形亀之助もそうだが、こうしたわが道を行く的な詩人、というのは根強い人気がある。山之口獏も同様かもしれない。荒地はその点、「われわれ」が行く的な詩人群であった。
 中島さんが取り上げた則武三雄(かずお)も、わが道的な人だったようにみえる。遅ればせながら、最近になって詩集を読んでいるのだが、不思議な詩人である。戦前にハイデッガ―を読んでいたみたいである。『根拠の本質』という、今読んでもおもしろい本がすでに戦前に訳されているが、こういうものも読んでいたのかもしれない。福井県というのは詩にとって、少し特異な地域であるような印象がある。
 山之口獏なんかは最近文庫になったので読めるが、今回名前が挙がった詩人たちは、今ではなかなか人目につかない。残念なことだ。他にも実はいたのかもしれないが、今となってはもう知りえない。
 今朝読んでいた『戦後派の研究』では、華族の零落について語られていたが、そうした斜陽族の話のなかで、千家元麿の甥っ子のことがでてきた。この甥っ子も詩を書いていたのだが、斜陽化し、泥棒に入って逮捕されてしまった。なぜ捕まったかというと、犯行現場に自分の詩集を落としてしまったからであった。詩集で足がついた犯人、というのはたぶんこの人だけではあるまいか。手書きの詩集ではなかったかと思う。詩集のタイトルは「転落」。記事には、あの詩人の千家元麿の親戚が、という感じで書かれているが、今となっては千家って誰? という感じである。ましてや甥っ子の「転落」など誰も読んではいないであろう。
 悪いことをするつもりのときは、間違っても私家版の自分の詩集などを持ち歩かないよう気を付けたい。
 実を言うと、先日ネットで千家の文庫本の詩集を二冊買った。戦後と戦前のもの。作品の選定が結構違う。まだ読んでないので、この甥っ子のことをしのびながらゆっくり読んでみたい。